E.H.H. project (桜吹雪×志人) feat CHIYORI / Bad Boyz Be Ambitious

Bad Boyz Be Ambitious
 E.H.H ProjectとはEducation Hip Hop、すなわち「教育的ヒップホップ」という意味である。この言葉がいかにも堅苦しく、ともすればリスナーに対して押しつけがましい印象さえ与えかねないものであることは、インタビューのなかで桜吹雪や志人も語っているところだ。しかし、そういった反発を覚悟したうえで、それでもなお彼らが教育という立場で発言することを選んだのか、そのことについて考えたいのである。

あなたの居ない世界は世界とは呼べない
俺達はどれだけ君たちの事を待ち望んでいたことか
泥だらけになりながら何処か心が損なわれた世の中で探し当てた友の名は
そこのあなただ

 9分30秒にもわたる壮大なトラックと、それを埋め尽くすばかりの過剰な意味性に溢れたリリック。そのメッセージは、まるで拡声器を通じて叫んでいるかのような割れたエフェクトによって、まさしく強烈なアジテーション効果を生み出す。彼らは挑発する。自分たちを代弁者として遠ざけて、日々の鬱屈を安全な寝床で晴らそうとするリスナーに対して。店頭に並び、レコメンドだかのポップが貼り付けられ、消費の対象とならざるを得ない矛盾、それをなんとか乗り越えようとする彼らの姿勢に賛同する。これは、ほかならぬ「あなた」へ向けられた、彼らからの真っ向なるメッセージなのだ。

立ち上がれ 若者よ 町中で語らおう

 ぼくは彼らの言葉を真に受けたい。だから究極的には、おそらくぼくは、このレコードを捨てなければならないし、あるいは、レコードを携えて、町に飛びださなければならない。それがいつになるのかぼくには分からない。どういうかたちを取るのかさえ見えない。けれども、このブログは、最終的にはこのブログを否定するかたちで終わるだろうし、そのために言葉を尽くしたいと思う。他人を侮辱するだけの、自分を優位に置きたいだけの、冷笑的に振る舞いながら安全な地位から発せられる言葉なんていらない。ぼくが必要としているのは、何かを始めるための、最初の一歩に繋がるための言葉だ。

夢を亡くした奴らへ いかした音を聞かしてやれ 東から昇る兆し むき出しの陽射しと成れ
あきらめるなよ 蓄えるのさ

 かっこよく堕落するなんて、そんな言葉は捨ててしまえ。かっこいいということはなんてかっこいいんだろう!

キカ

キカ <ヘア無修正版> [DVD]
 まず、この作品はサスペンスではないと言っておこう。むしろサスペンスに付随する複雑極まる人間関係を一笑に付す(そして諦める)、ペドロ・アルモドバル一流のユーモアとアイロニーに充ちた作品だ。

 それは、この作品のタイトルが『キカ』であることからも明らかである。

 彼女は一見して物語の外部に疎外されている。ストーリーが進行するにつれ、ラモンやニコラス、アンドレア、そしてファナやパブロといった人物たちの相関関係が明らかになってゆくなか、彼女だけは殆ど過去に言及されることなく、ただ状況に巻き込まれることでかろうじて物語への参与を許されている状態なのだ。

 しかし、ストーリーの糸がもつれ合ったまま突入した終盤において、私たちはようやく、この作品の華麗な転倒に気づかされる。恐るべき事件が一応の収束を見せた後、ユーカリ館を去るキカが道中でヒッチハイカーを拾うラストシーン。これまで皆が一丸となって築き上げてきた重厚なドラマを、いっさい無視してあっけなく「次」に乗り換えてしまった瞬間、この作品はオープニングで映し出されたように、まさしく鍵穴を覘くようなものでしかなかったことが明らかになるのである。

 これらをどのように捉えるのかは各人に委ねられるわけだが(例えば何度も「鍵穴」の向こうを覘き見ようとして裏切られたキカの孤独感から他者との断絶を読み取るとか)、僕はこの痛快さだけでこの作品を素晴らしいと感じた。奇抜なファッションや色彩感覚だけに惑わされるのは勿体ない。まったく抜け目ない監督である。

Prologue

 ぼくの言葉はまだまだ未熟で、空っ風のなかで身を竦めている。ここは薄暗くて肌寒い。しかし、一から取り掛かるにはおあつらえ向きの場所だろう。お約束事のコードを共有しながら盲目の庭で戯れる人々のなかで、たえず心理的負債を抱えていたぼくだったけれど、今はきっぱりと別れを告げることができる。さしあたってぼくは対象への愛を、在りし日の回想を、つらなる日々を語り続けるだろう。そして、何かを手繰り寄せていこうとするドキュメントは、そのまま一本の地平に収斂していくはずだ。ぼくはぼく自身の動力となって、物語を創造する。そして、それが、あなたの胸のうちに引っ掛かりのようなものとなれば、なお嬉しい。ぼくは、他ならぬ「あなた」に語りかけることを忘れない。

少女Q

少女Q

 この曲を、いわゆる電波ソングとして消費しようとする人々に対して抵抗を感じる。これは、言ってしまえば、80年代アイドルソングに向けられた周到なパロディである(中森明菜の「少女A」に対するQというアンサーソング)。僕は、何も80年代アイドルソングの文脈を知らない人々に向かって、知識の偏重を説きたいわけではない。ただ、理解を越えるものを半ば乱暴的に「電波」と切り捨ててしまうその無邪気さのようなものに、違和感と、一抹の不安を感じるのである。そういった態度は、おそらく音楽に限った話ではないはずだから。

 話を戻そう。

 理想と現実とのギャップに生じる、思春期の少女の不安定な感情を上手く捉えた歌詞だと思う。

 少女Qとは「私」自身のささやかな理想の表象だ。少女Qは夜更けに統計学の本を読み耽る知性と、俳句を詠む感性を備えている。家から校門まで必ず32分で到着するし、前屈だってマイナス40は容易い。まさに「感激、衝撃、素敵」の三拍子を備えたアイドルなのだ。

 私はここに在る 鏡に映ってる
 少しだけ化粧した アイドルの少女Q


 謎めく乙女の正体、それは少しだけ化粧した「私」自身に他ならない。しかし「私」が少女Qと一体化することはありえない。少女Qは本質的に鏡の向こうの存在であるからだ。現実の「私」には統計学の本は難解すぎる。俳句を理解するだけの語彙も足りない。ときどき遅刻をやらかすし、身体だってずいぶん硬い。要するに、平凡な、普通の女の子。

 私の理想は五分刈りよ(あくまで、あくまで理想は)


 日常からの大胆な飛翔を夢想しながら、独白のなかでさえ「あくまで」と謙虚な断りを挿まずにはいられない、少女の本来の姿が見えてくる。掴みきれない幻と、満たされない現実。理想を演じきれない「私」が、少女Qとして遥か遠くを見つめるとき、彼女の頭に過ぎるものはいったい何なのか。

 誰か私を泣かせてよ


 「私」が最終的に求めたのは、少女Qではなく、他者としての「誰か」であった。かくして「私」は待ち続ける。退屈な日常に風穴を空け、私を困らせてくれる「誰か」の存在を。


 哀感ただよう80年代アイドル・テクノ歌謡的アレンジが、歌詞の世界をよりいっそう盛り立てる。2005年、もっとも好きだったアニメソング。

JOHN COLTRANE / Selflessness featuring My Favorite Things

セルフレスネス・フィーチャリング・マイ・フェイヴァリット・シングス
 震えた。戦慄に近い感動があった。『My Favorite Things』を聴く際に込み上げるのは、そのような感情だ。一切の妥協を許さないプレイヤー達による演奏は、即興のなか互いの音でもって呼応しあいながら、何かを手繰り寄せようとする土臭い葛藤のドキュメントそのものである。息を呑む、と言うより他がない。限りない緊張と解放、旋律の解体と再構築を繰り返しながら高らかに響き渡るコルトレーンの鋭いサックスは、安全な位置に立つ自分を挑発し、八つ裂きにする。強烈な問いかけ。答えるまえに、足を一歩踏み出しているような。コルトレーンは、本当にかっこいい。
 ライブ演奏には一回性の価値のようなものがあると僕は思うけれども、今から40年も前のこんな素晴らしい演奏が手元で聴けてしまう邂逅を、素直に感謝したくなるアルバムである。