田中小実昌「自動巻時計の一日」

自動巻時計の一日 (河出文庫)
 久しぶりの更新になってしまった。今月に入って色々な作品に触れる機会があったにも関わらず、それを文章に落とし込むだけの気力がなかった。仕事の上で自分の弱さを指摘されるなど、悔しい思いをすることが多かった。それは指摘されたことに対してではなくて、自分がその悪癖を克服しなければならないと常々感じていたはずなのに、結局のところそれがいまだに出来ていなかったことが許せなかったのだ。ぼくはぼくを軽蔑すべきじゃないが、それは自分を誤魔化してまで守りぬくことではないだろう。
 そんな状況にあって、こないだ読んだ田中小実昌の「自動巻時計の一日」は面白かった。彼の本を読んだのはこれが初めて、というより、この本を手に取るまでぼくは田中小実昌という人物を知らなかった。なんとなく名前そのものに覚えがあったようだ。そういえば不思議なことに、この日たまたま小田扉の「江豆町」も同時に買ったら、「自動巻時計の一日」のカバー装画を手がけていたのが小田扉本人だった。
 内容はいたって単純で、米軍基地の化学研究所で働く「おれ」の一日を、ほとんど日報に近いようなかたちで淡々と描くものとなっている。彼の生活は、まさしく生活そのものであって、つまり単調である。たとえば、研究所で仕事を始めてからは舌を噛みそうな薬品の名前が延々と羅列されて、それをシェーキング・マシンにかける所作が繰り返し繰り返し描かれる。そのあいだに挿入される、副業でやっている海外小説の翻訳から引かれた巧みな心理描写が、ひとつの作品のなかで虚実を対比的に際立たせているのは面白いと思った。作者の態度は明確で、彼は小説のなかで小説を書かない仕方で作品を生み出そうとしている。
 それは前述した作品に対して図る間合いのみならず、作中において「おれ」が周囲の人々や物に対する距離でもある。たとえば、彼は自分の妻に始まり、電車の乗客、職場の人間たちを描写し、それらに省察を加えていくたびに、その考えを外部との繋がりにおいて遮断しようとする。「おれが、頭のなかでこねくりまわしていることは、だれにも関係のないこと」だとして、過度に加担しようとしないのが、彼の一貫した態度なのだ。

 中学の一、二年のときだったとおもうが、列車の窓から外をみていて、おれとは、はなれた世界があるのを、ひょいと感じ、ショックみたいなものをうけたおぼえがある。
 それまでは、世界は、すべて、自分につながっているような気がしてたようだ。
 一生、おれが、手にとることも、見ることもできない、経験の可能性の外にあることでも、なにか、それをよぶ名詞があれば(普通名詞でも、固有名詞でも)、おれの頭のなかに、場所をもっていた。
 しかし、電車の窓の外にあるものは、げんに、そこにあり(見え)ながら、おれにとっては名前がないことに、ふと気がつき、中学生のおれは、おかしな気持ちになった。

 自分の存在によらず、何ら影響を与えないものが目の前に横たわっていることを知覚したとき、彼はその距離において自分自身を正確に意識した。自我の目覚めの瞬間であると同時に、関係できるものとできないものの限界を知ったことで、その後の彼の資質に影響を与えた出来事だった。たとえば、彼はしばしば自分の劣等感を告白する。自分がいいかげんであることを知っている。それは謙遜でも偽悪的なポーズでもなく、ただの本心から、自分がいいかげんであることを正しく心得ている。彼は「いいかげんでなくなる努力をすればいいんだけど、それはしない」。なぜなら、彼はいいかげんだからである。ぼくは、このように言いきれる人が好きである。
 他人や自分自身とのあいだに横たわる距離を、ただありのままのものとして眺めること。これがどれだけ困難なことであるかは、自分の体験に即してみてよく分かるつもりだ。下手な同情は隠れた差別意識や自己陶酔を孕みうるわけで、そういう意味で、彼はとても正直な人だと思う。軽妙な態度とは裏腹に、しなやかな強さを持っているからこそ、彼の人柄はどこか憎めず、作品の読後もどこか爽快でさえあるのだろう。今のぼくは、ぼくを軽蔑しないために前進しなければならないので、彼の態度とは相容れない部分も多いのだが、しかし彼に好感を抱いているというのは、そういうことなのである。