米澤穂信「さよなら妖精」

さよなら妖精 (創元推理文庫)
 近所の喫茶店米澤穂信の『さよなら妖精』を読み終えたあと、なんだか泣きそうな気分だったのだがグッと堪えて昼食を取ろうと思い、立ち寄った東方見聞録のチーズカツ定食を食べながら登場人物のことを考えているうちにいつしか涙が滲んでいた。
 しかし、僕は絶望していたわけではなかったのだ。その後、この悲しみの正体が何であるのか考えていたなかで、カミュの不条理に関する記述を思い出していた。

 不条理という言葉の当てはまるのは、この世界は割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者がともに対峙したままである状態についてなのだ。

 この作品は、世界から何度も撥ねつけられながら、それでも関係を求めようと僅かな光明を探りあてようと葛藤する少年の物語だと思った。とは言え、作者は主人公に加担することなく一定の距離でもって試練を強いるのみであるから、物語は希望にも絶望にも寄りかかることなく不思議な余韻を残して終わる。正確に言えば、あの悲劇的な結末を迎えた瞬間、人生における逃走と追跡の永久運動の入り口に初めて立つことが出来た、その旅路の物語だったのではないか。
 幸運であることの代償として退屈な日常に甘んじている主人公の守屋路行は、いわゆる「ここではないどこか」の存在を信じてきっかけを待っている人間である。部活で弓道をやっているが特別熱中しているわけではなく、高校三年の最後の大会も実に淡々とこなしていく。さりとて夢中になれるものがほかにあるわけでもない。心中に焦燥感を覚えながら緩やかな諦念とともに日々は過ぎ去っていく。
 そんな彼にとって、ユーゴスラビアからやって来たという少女マーヤとの出会いは、自身の現実変革に繋がるかもしれない可能性そのものであった。父親の都合で二ヶ月間だけ滞在することになった彼女は、複雑な政治的状況を背負いながら、六つの国で構成されているユーゴスラビアに七番目の国家を創造するという壮大な夢を抱いており、その為に見聞を広めたいという明確な意思のもとで肉親とともに世界各地を巡っていることが明かされる。作者が随所に用意する日常の謎の数々は、見慣れた風景を不思議と驚きの連続として見る異国の少女の視線そのものとしてシンクロする。それは同時に、守屋たちの現実が新しく再構築されていく過程でもある。この交流の日々は瑞々しく微笑ましいものだ。
 マーヤが帰国する前日、自分もユーゴスラビアに連れて行って欲しいと懇願した守屋の行動は、いくら彼女に触発されていたとはいえ、あまりに突拍子がなく理解を超えるものだ。現実変革を試みようとする彼の意思を汲み取ることは難しくないが、それはあまりに浅はかな、劇的なるものへの憧れだけが先行した幼さの証明に過ぎないのである。彼の行為を「観光」と厳しく切り捨てたマーヤは正しい。彼は彼の想像のなかでユーゴスラビアという虚構を作り上げ、「ここではないどこか」に重ね合わせた。それは実際の、本当のユーゴスラビアなんかではなかった。しかしだからこそ終盤、彼が最後の推理を働かせてマーヤの帰国先を突き止める場面は、「ここではないどこか」を漠然と希求していたに過ぎなかった彼が、ボスニア・ヘルツェゴヴィナという明確な場所を見出すことで、マーヤの現実に関係しうる可能性を初めて掴みかけたという意味で感動的なのである。その後、太刀洗の非難に臆することなく、「わかっているが、決めたんだ」と毅然な態度で答える守屋を、もはや軽んずることは出来ないだろう。
 さて、物語は静かに閉じられる。マーヤの死は、実兄の手紙の、太刀洗によって翻訳されたぎこちない文章によって淡々と綴られるのみだ。守屋はまたしても現実から拒まれ、放心状態のなかでかろうじてユーゴスラビアの調査を続けるか否かを自問する。それは「マーヤを殺したものの正体を突き止める」ことであり、彼の自己変革の僅かな萌芽でさえあるかも知れない。ユーゴスラビアの内紛は虚構だが、それがもたらした一人の少女の死は紛れもない真実なのである。しかし彼は答えを出すことが出来ない。作者もまた答えを提示しない。外部と関係することで自らの現実を組み替えられるかもしれない可能性だけが示されたまま物語は終わるのだ。しかしだからといってこの作品は、ただ絶望感を与えるだけものではない。マーヤの抱いていた希望を、しなやかな強さを手に入れるべく、少年が始めなければならないのは、このすべてが終わったあとの荒野からだ。その成長の予感を透徹した厳しさのなかに感じさせる結末は見事だと言わなければならない。