少女Q

少女Q

 この曲を、いわゆる電波ソングとして消費しようとする人々に対して抵抗を感じる。これは、言ってしまえば、80年代アイドルソングに向けられた周到なパロディである(中森明菜の「少女A」に対するQというアンサーソング)。僕は、何も80年代アイドルソングの文脈を知らない人々に向かって、知識の偏重を説きたいわけではない。ただ、理解を越えるものを半ば乱暴的に「電波」と切り捨ててしまうその無邪気さのようなものに、違和感と、一抹の不安を感じるのである。そういった態度は、おそらく音楽に限った話ではないはずだから。

 話を戻そう。

 理想と現実とのギャップに生じる、思春期の少女の不安定な感情を上手く捉えた歌詞だと思う。

 少女Qとは「私」自身のささやかな理想の表象だ。少女Qは夜更けに統計学の本を読み耽る知性と、俳句を詠む感性を備えている。家から校門まで必ず32分で到着するし、前屈だってマイナス40は容易い。まさに「感激、衝撃、素敵」の三拍子を備えたアイドルなのだ。

 私はここに在る 鏡に映ってる
 少しだけ化粧した アイドルの少女Q


 謎めく乙女の正体、それは少しだけ化粧した「私」自身に他ならない。しかし「私」が少女Qと一体化することはありえない。少女Qは本質的に鏡の向こうの存在であるからだ。現実の「私」には統計学の本は難解すぎる。俳句を理解するだけの語彙も足りない。ときどき遅刻をやらかすし、身体だってずいぶん硬い。要するに、平凡な、普通の女の子。

 私の理想は五分刈りよ(あくまで、あくまで理想は)


 日常からの大胆な飛翔を夢想しながら、独白のなかでさえ「あくまで」と謙虚な断りを挿まずにはいられない、少女の本来の姿が見えてくる。掴みきれない幻と、満たされない現実。理想を演じきれない「私」が、少女Qとして遥か遠くを見つめるとき、彼女の頭に過ぎるものはいったい何なのか。

 誰か私を泣かせてよ


 「私」が最終的に求めたのは、少女Qではなく、他者としての「誰か」であった。かくして「私」は待ち続ける。退屈な日常に風穴を空け、私を困らせてくれる「誰か」の存在を。


 哀感ただよう80年代アイドル・テクノ歌謡的アレンジが、歌詞の世界をよりいっそう盛り立てる。2005年、もっとも好きだったアニメソング。