北野勇作「どーなつ」

どーなつ (ハヤカワ文庫 JA Jコレクション)
 午後になってから外に出た。陽射しが弱い分、暑さを感じることはない。狭い住宅街の道を表通りに向かって歩いていると、背後からギコギコと不自然な音がした。僕の歩くスピードを若干上回る速度で自転車が通り抜けようとしていた。音の原因はチェーンにびっしりと張り付いた錆びにあるらしい。清潔そうな若い女性が乗っていたから、そのギャップに何となく驚く。
 喫茶店は混んでいた。かろうじて空いていた窓際の席に腰を下ろす。時間帯の問題もあるだろうが、いくら待っても席を立たなかったり、かと思えば矢継ぎ早に席が空いたりして、客の流れが読めない店だ。
 カウンターには物腰の柔らかい店長が立っている。丁寧な応対のわりに抑揚のない喋りかたをするから表面的な印象をうける人だ。僕が来るたびに、彼はそこにいる。当たり前のことだが、寄るたびにそう思う。それが彼の仕事なのだ。今年いっぱいで会社を辞めようとぼんやり考えているからなのか、最近はそこ此処で働く人々に対して聞き耳を立てたくなるような気分になる。
 アイスコーヒーを飲みながら、先日読み終えた北野勇作の「どーなつ」について考えていた。これはタイトルが示すとおり中心不在の物語だった。自他の記憶が混在するようになった結果、どこからが自分でどこからが他人か区別できない、まるで曖昧な世界に「おれ」は生きている。そうである以上、そこではもはや「おれ」という存在は空虚な記号に過ぎない。しかし、そうした喪失感を所与のものとして疑うことなく、物語は淡々と語られる。このいささか突拍子のない作品が、しかしながら確かな肌触りを持っているのは、実はと切りだすまでもなく僕たちだって同じ状況に置かれているからだ。自分の過去さえ都合よく改ざんできてしまうものだし、日常においても多くのフィクションに関係づけられている僕たちは、当たり前のように中心不在である。
 空虚であるのは「おれ」だけにとどまらない。作品世界そのものがなんだか完全に弛緩してしまっているのだ。テレビの中に始まりテレビの中で終わっていく冗談のような戦争、人工知能を備えた「人工知熊」なる謎の産業ロボット。いまや世界は公然とダジャレを受け入れてしまうほどに緩みきっている。このふざけた世界にあって、なお僕たちが狂気に陥らずにいられるには、同じようにふざけてしまうしかない。正気であることが命取りになりかねないなんて、まったくおかしな世の中だ。それでも、この物語が絶望にまで行き着かないのは、「おれ」が物語を求めないからだ。ゲームになってしまった世界のなかで「どーなつ」であることの仕方なさを認めているからだ。希望もない代わりに絶望することもない。いわば穏やかな諦念といった終末的な気分があって、それは今の時代を象徴するものでさえあると思われる。
 おそらく、表紙のカバー装画を西島大介が手がけているのは偶然ではないだろう。ふざけた世界を目の前に正気でもって突き進もうとする少年が、どこまでも中心に辿り着けない絶望を描いたのが「凹村戦争」だったし、赦しというかたちでいっさいを無視し続けた少女が、最後に「ふざけんな!」と抗った拍子に世界が壊れてしまった脅威を描いたのが「アトモスフィア」だった。同じ温度感を有する二人の作家による、現実に対するそれぞれのアンサーのようである。
 壊れたレコードプレーヤーの上で延々と回転を続けるドーナツ盤。33回転の緩やかな諦観。針を落として流れてくるのは、死ぬほど美しいエレクトロニカだ。
 そんなことを考えながら、同時に、今の僕が欲しいのはそんな感傷ではないとも思っていた。ふざけた世界に対してふざけてふるまうことは、真っ当であることと何ら矛盾しないはずだ。それを自分に対して見せつけてやることが、今の僕がやらなければならないことだ。そして、そのために今は、こうして書くことをやめてはいけない。
 空気は湿り気を帯びていた。一雨降るだろうと思った。遠くの空から厚い雲が迫り出すようだ。しなやかな強さが欲しい!