街のあかり

 台風一過の快晴かと高を括っておれば、見る間に天気が崩れていったので早いうちに予約を取って散髪に向かうことにした。予約はすんなりだったが、なぜか現場で30分ほど待たされる。いつも同じヘアスタイルですね、気分転換に変えてみようと思わないんですか。ひと通り切りおわった髪にドライヤーをかけながら美容師の男が口にする。言うタイミングが違うのではないかというのはさておき、確かに毎度毎度の注文が「このあいだと同じでお願いします」なのだから、彼にすれば少しは疑問を覚えるのだろうか。髪型に対してまったく頓着しない性質なので、それならば次回はキブンテンカンしたいですと軽く答える。というわけで次回が楽しみだ。
 それから池袋界隈をぶらついていると、人世横丁でロケ隊を発見した。狭い通りにガツガツと機材が持ち込まれている。若い店主の出店が相次いで最近盛況だという記事が、ちょうど先ほどの美容院にあったHanako池袋特集だかで紹介されていた。それとは関係ないだろうが、とにかく何かの撮影がおこなわれていた。異常に焚かれた照明のせいで通り一帯が真っ白になっていた。
 その後、西部の方まで引き返してデパ地下でモロゾフのレアチーズケーキを購入。帰りがけに酒店でベルギービールを何本か購入。昨日の台風が杞憂であったことの反動からか、今日はやけに人が多い。視界に映るものがいちいち余分に思える。音楽が欲しくなったのでiPodを取り出す。イヤホンはゼンハイザーに変えている。やけに大きくて長時間付けていると耳が痛くなる代物だが、それでも低音に力があって変えがたい魅力がある。ナンバーガールの「OMOIDE IN MY HEAD」が耳元で炸裂。1999年に新宿JAMでおこなわれたFAN CLUB3のライブバージョンだ。渾然一体として激しく牙を剥いた音音音に圧倒。濁流をドバドバ浴びて脳内チューニングシステムが唸りを上げる。混み合う駅構内をすたすた歩く。すたすた歩く。これは今読んでいるヴィトルド・ゴンブローヴィッチ「トランス=アトランティック」の影響だ。その後もナンバーガールは続いた。

 日付を一日戻して……映画を観た。「街のあかり」。フィンランドの監督アキ・カウリスマキの生誕50年を記念した作品。ついでに渋谷ユーロスペースも25周年らしい。警備会社で夜警のアルバイトをしている主人公コイステネンは「犬のように忠実で、バカで女々しい」徹底して孤独な男。そして不幸。実直であるゆえに周囲との軋轢が絶えない一方、一見して敗残者のムードを漂わす彼は周りから遠ざけられている存在でもある。その主人公演じるヤンネ・フーティアイネンの表情が良くて、つねに不満そうで、ふてぶてしく、何かを諦めてしまったかのような哀愁と、虚勢を張ってでも一矢報いようとする決意が混在していて、なんだかやけにカッコいい。数々の不幸に見舞われながら、あるいは自ら追い込んでいきながら、最後の最後で瞬く灯りは、決して手放しで喜べるものではないけれど、ささやかで尊く、力強い。映像も無駄がなく独特の静謐感がありますね。あとライブハウスのロックバンドが素敵だ。カウリスマキの得意とするところだ。

北野勇作「どーなつ」

どーなつ (ハヤカワ文庫 JA Jコレクション)
 午後になってから外に出た。陽射しが弱い分、暑さを感じることはない。狭い住宅街の道を表通りに向かって歩いていると、背後からギコギコと不自然な音がした。僕の歩くスピードを若干上回る速度で自転車が通り抜けようとしていた。音の原因はチェーンにびっしりと張り付いた錆びにあるらしい。清潔そうな若い女性が乗っていたから、そのギャップに何となく驚く。
 喫茶店は混んでいた。かろうじて空いていた窓際の席に腰を下ろす。時間帯の問題もあるだろうが、いくら待っても席を立たなかったり、かと思えば矢継ぎ早に席が空いたりして、客の流れが読めない店だ。
 カウンターには物腰の柔らかい店長が立っている。丁寧な応対のわりに抑揚のない喋りかたをするから表面的な印象をうける人だ。僕が来るたびに、彼はそこにいる。当たり前のことだが、寄るたびにそう思う。それが彼の仕事なのだ。今年いっぱいで会社を辞めようとぼんやり考えているからなのか、最近はそこ此処で働く人々に対して聞き耳を立てたくなるような気分になる。
 アイスコーヒーを飲みながら、先日読み終えた北野勇作の「どーなつ」について考えていた。これはタイトルが示すとおり中心不在の物語だった。自他の記憶が混在するようになった結果、どこからが自分でどこからが他人か区別できない、まるで曖昧な世界に「おれ」は生きている。そうである以上、そこではもはや「おれ」という存在は空虚な記号に過ぎない。しかし、そうした喪失感を所与のものとして疑うことなく、物語は淡々と語られる。このいささか突拍子のない作品が、しかしながら確かな肌触りを持っているのは、実はと切りだすまでもなく僕たちだって同じ状況に置かれているからだ。自分の過去さえ都合よく改ざんできてしまうものだし、日常においても多くのフィクションに関係づけられている僕たちは、当たり前のように中心不在である。
 空虚であるのは「おれ」だけにとどまらない。作品世界そのものがなんだか完全に弛緩してしまっているのだ。テレビの中に始まりテレビの中で終わっていく冗談のような戦争、人工知能を備えた「人工知熊」なる謎の産業ロボット。いまや世界は公然とダジャレを受け入れてしまうほどに緩みきっている。このふざけた世界にあって、なお僕たちが狂気に陥らずにいられるには、同じようにふざけてしまうしかない。正気であることが命取りになりかねないなんて、まったくおかしな世の中だ。それでも、この物語が絶望にまで行き着かないのは、「おれ」が物語を求めないからだ。ゲームになってしまった世界のなかで「どーなつ」であることの仕方なさを認めているからだ。希望もない代わりに絶望することもない。いわば穏やかな諦念といった終末的な気分があって、それは今の時代を象徴するものでさえあると思われる。
 おそらく、表紙のカバー装画を西島大介が手がけているのは偶然ではないだろう。ふざけた世界を目の前に正気でもって突き進もうとする少年が、どこまでも中心に辿り着けない絶望を描いたのが「凹村戦争」だったし、赦しというかたちでいっさいを無視し続けた少女が、最後に「ふざけんな!」と抗った拍子に世界が壊れてしまった脅威を描いたのが「アトモスフィア」だった。同じ温度感を有する二人の作家による、現実に対するそれぞれのアンサーのようである。
 壊れたレコードプレーヤーの上で延々と回転を続けるドーナツ盤。33回転の緩やかな諦観。針を落として流れてくるのは、死ぬほど美しいエレクトロニカだ。
 そんなことを考えながら、同時に、今の僕が欲しいのはそんな感傷ではないとも思っていた。ふざけた世界に対してふざけてふるまうことは、真っ当であることと何ら矛盾しないはずだ。それを自分に対して見せつけてやることが、今の僕がやらなければならないことだ。そして、そのために今は、こうして書くことをやめてはいけない。
 空気は湿り気を帯びていた。一雨降るだろうと思った。遠くの空から厚い雲が迫り出すようだ。しなやかな強さが欲しい!

田中小実昌「自動巻時計の一日」

自動巻時計の一日 (河出文庫)
 久しぶりの更新になってしまった。今月に入って色々な作品に触れる機会があったにも関わらず、それを文章に落とし込むだけの気力がなかった。仕事の上で自分の弱さを指摘されるなど、悔しい思いをすることが多かった。それは指摘されたことに対してではなくて、自分がその悪癖を克服しなければならないと常々感じていたはずなのに、結局のところそれがいまだに出来ていなかったことが許せなかったのだ。ぼくはぼくを軽蔑すべきじゃないが、それは自分を誤魔化してまで守りぬくことではないだろう。
 そんな状況にあって、こないだ読んだ田中小実昌の「自動巻時計の一日」は面白かった。彼の本を読んだのはこれが初めて、というより、この本を手に取るまでぼくは田中小実昌という人物を知らなかった。なんとなく名前そのものに覚えがあったようだ。そういえば不思議なことに、この日たまたま小田扉の「江豆町」も同時に買ったら、「自動巻時計の一日」のカバー装画を手がけていたのが小田扉本人だった。
 内容はいたって単純で、米軍基地の化学研究所で働く「おれ」の一日を、ほとんど日報に近いようなかたちで淡々と描くものとなっている。彼の生活は、まさしく生活そのものであって、つまり単調である。たとえば、研究所で仕事を始めてからは舌を噛みそうな薬品の名前が延々と羅列されて、それをシェーキング・マシンにかける所作が繰り返し繰り返し描かれる。そのあいだに挿入される、副業でやっている海外小説の翻訳から引かれた巧みな心理描写が、ひとつの作品のなかで虚実を対比的に際立たせているのは面白いと思った。作者の態度は明確で、彼は小説のなかで小説を書かない仕方で作品を生み出そうとしている。
 それは前述した作品に対して図る間合いのみならず、作中において「おれ」が周囲の人々や物に対する距離でもある。たとえば、彼は自分の妻に始まり、電車の乗客、職場の人間たちを描写し、それらに省察を加えていくたびに、その考えを外部との繋がりにおいて遮断しようとする。「おれが、頭のなかでこねくりまわしていることは、だれにも関係のないこと」だとして、過度に加担しようとしないのが、彼の一貫した態度なのだ。

 中学の一、二年のときだったとおもうが、列車の窓から外をみていて、おれとは、はなれた世界があるのを、ひょいと感じ、ショックみたいなものをうけたおぼえがある。
 それまでは、世界は、すべて、自分につながっているような気がしてたようだ。
 一生、おれが、手にとることも、見ることもできない、経験の可能性の外にあることでも、なにか、それをよぶ名詞があれば(普通名詞でも、固有名詞でも)、おれの頭のなかに、場所をもっていた。
 しかし、電車の窓の外にあるものは、げんに、そこにあり(見え)ながら、おれにとっては名前がないことに、ふと気がつき、中学生のおれは、おかしな気持ちになった。

 自分の存在によらず、何ら影響を与えないものが目の前に横たわっていることを知覚したとき、彼はその距離において自分自身を正確に意識した。自我の目覚めの瞬間であると同時に、関係できるものとできないものの限界を知ったことで、その後の彼の資質に影響を与えた出来事だった。たとえば、彼はしばしば自分の劣等感を告白する。自分がいいかげんであることを知っている。それは謙遜でも偽悪的なポーズでもなく、ただの本心から、自分がいいかげんであることを正しく心得ている。彼は「いいかげんでなくなる努力をすればいいんだけど、それはしない」。なぜなら、彼はいいかげんだからである。ぼくは、このように言いきれる人が好きである。
 他人や自分自身とのあいだに横たわる距離を、ただありのままのものとして眺めること。これがどれだけ困難なことであるかは、自分の体験に即してみてよく分かるつもりだ。下手な同情は隠れた差別意識や自己陶酔を孕みうるわけで、そういう意味で、彼はとても正直な人だと思う。軽妙な態度とは裏腹に、しなやかな強さを持っているからこそ、彼の人柄はどこか憎めず、作品の読後もどこか爽快でさえあるのだろう。今のぼくは、ぼくを軽蔑しないために前進しなければならないので、彼の態度とは相容れない部分も多いのだが、しかし彼に好感を抱いているというのは、そういうことなのである。

ブラスト公論─誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない

ブラスト公論―誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない
 きっかけは、「時をかける少女」のDVD-BOXに封入されていたハンドブックに、監督の細田守とライムスターの宇多丸の対談が掲載されていたのを読んで、彼の音楽以外の活動に興味を持ったからだった。もともとBUBKAのマブ論やスペースシャワーTV第三会議室といった活動について情報として知ってはいたが、まずは商品として流通されていて、かつ容易に入手できるものから選ぶことにして、手に取ったのが本書である。
 『ブラスト公論─誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない』は、ヒップホップ誌「BLAST」内で2000年から約四年にわたって連載されていたコーナーを一冊にまとめたものである。内外の時事ネタやその時々に興味関心のあった話題を居酒屋での座談会という形式で語り合うというもので、参加メンバーは宇多丸を始め、フリーライター古川耕、フォトグラファーの前原猛、当時ファッション・ディレクターであった郷原紀幸、音楽ジャーナリストの高橋芳朗といった、通称公論クルーによって構成されている。読み始めた当初は彼らの素性などまったく知らなかったのだけれど、にもかかわらず、最終的に僕はこの本をかなり楽しく読むことが出来た。なるほど、取り上げられるトピックには時代を感じさせるものが決して少なくないが、『ブラスト公論』にはそういった問題を問題とさせない確かな魅力があると思っている。
 それは第一に書き起こされたトークを読む純粋な面白さに因るものだ。読んでいくうちに無名だった彼らの性格や考え方が見えてきて、次第にキャラクター像が確立されていく。例えば宇多丸はロジカルに会話を展開させようとするけれど、前原はわりと感覚的に物を言う傾向があって、そのあいだを郷原はマイペースにすり抜けようとして、それらに同調したり反発したりしながら、古川や高橋が話の舵取りをおこなうといった具合に。妄想やモテ話、中高時代の甘酸っぱい思い出など共感を誘いやすい身近な話題から当時の社会的出来事まで、冗談とも本気ともつかない調子で痛快に切り込んでいく。こんなことをわざわざ書くのは野暮かも知れないが、気心知れた彼らの会話そのものがジャズのフリーセッションの如く互いを刺激し合いながら、それを積み上げたり突き崩したりする。会話そのものの快楽が、臨場感を伴って伝わってくるというわけだ。
 本書の魅力はそれだけに留まることなく、むしろ次に述べることが重要であるかもしれない。すなわち、数々のトピックに言及していく彼らの語りの態度についてだ。ヒップホップ誌に連載されていながら、なるべくヒップホップ文化とは関係のない事象について語るというコンセプトのもとで開始されたのが『ブラスト公論』であった。その副題「誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない」について、連載終了後におこなわれた同窓会のなかで次のような説明がなされている。

 高橋 タイトルについては?「誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない」。
 古川 豪邸的価値観っていうのはその時代その時代に形を変えてあるわけですから。
 宇多丸 勝ち組負け組とかね。ただね、「負け組でもいいじゃない!」って言ってる
     わけじゃなくて、その二分法を拒否するって言ってるわけですからね……
     そこは言っておきたいですよ。 
 古川 そう、「だからあばら屋でもいいじゃない!」ではないんですよ、このタイトルは
    決して。「誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない」という現実の在り方について
    僕たちは喋ってるんだ、ってことですね。
 (中略)
 宇多丸 あとは自分の現状がダメだと思うならね、なんにも努力してない奴にいいこと
     なんてあるわけねぇだろっていう……しょうがねぇよ!

 豪邸的価値観を嘲るわけでもなく、かといってあばら屋的価値観を敢えて擁護するような真似もしない。対立構造そのものに違和感を唱えるのである。物事をフラットな地平に捉えなおしたうえで、自分のモラルでもって解釈を与える。そして、それもまたひとつの意見に過ぎないことを当然心得ているから、彼らの言葉は独善に陥らないでつねに他人に向かって開かれたものになる。仲間内だけの排他的な会話として退行せずに、読者に対して解釈の余地を残しながら、かつ俺は俺だよというレペゼン精神でもって語られている。本書が素晴らしい所以はまさにそこにある。彼らはその語りの調子に反して非常にまっとうなのだ。そうでなければ、引用した部分のような言葉を宇多丸が口にすることは出来ないだろう。
 全体的に軽妙なノリで進行しながら、その内実は自分の言葉で誠実に語ろうとする男達の見識に溢れている。彼らはとても素晴らしく、自分の生活にも大きな励みになると感じた。

米澤穂信「さよなら妖精」

さよなら妖精 (創元推理文庫)
 近所の喫茶店米澤穂信の『さよなら妖精』を読み終えたあと、なんだか泣きそうな気分だったのだがグッと堪えて昼食を取ろうと思い、立ち寄った東方見聞録のチーズカツ定食を食べながら登場人物のことを考えているうちにいつしか涙が滲んでいた。
 しかし、僕は絶望していたわけではなかったのだ。その後、この悲しみの正体が何であるのか考えていたなかで、カミュの不条理に関する記述を思い出していた。

 不条理という言葉の当てはまるのは、この世界は割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者がともに対峙したままである状態についてなのだ。

 この作品は、世界から何度も撥ねつけられながら、それでも関係を求めようと僅かな光明を探りあてようと葛藤する少年の物語だと思った。とは言え、作者は主人公に加担することなく一定の距離でもって試練を強いるのみであるから、物語は希望にも絶望にも寄りかかることなく不思議な余韻を残して終わる。正確に言えば、あの悲劇的な結末を迎えた瞬間、人生における逃走と追跡の永久運動の入り口に初めて立つことが出来た、その旅路の物語だったのではないか。
 幸運であることの代償として退屈な日常に甘んじている主人公の守屋路行は、いわゆる「ここではないどこか」の存在を信じてきっかけを待っている人間である。部活で弓道をやっているが特別熱中しているわけではなく、高校三年の最後の大会も実に淡々とこなしていく。さりとて夢中になれるものがほかにあるわけでもない。心中に焦燥感を覚えながら緩やかな諦念とともに日々は過ぎ去っていく。
 そんな彼にとって、ユーゴスラビアからやって来たという少女マーヤとの出会いは、自身の現実変革に繋がるかもしれない可能性そのものであった。父親の都合で二ヶ月間だけ滞在することになった彼女は、複雑な政治的状況を背負いながら、六つの国で構成されているユーゴスラビアに七番目の国家を創造するという壮大な夢を抱いており、その為に見聞を広めたいという明確な意思のもとで肉親とともに世界各地を巡っていることが明かされる。作者が随所に用意する日常の謎の数々は、見慣れた風景を不思議と驚きの連続として見る異国の少女の視線そのものとしてシンクロする。それは同時に、守屋たちの現実が新しく再構築されていく過程でもある。この交流の日々は瑞々しく微笑ましいものだ。
 マーヤが帰国する前日、自分もユーゴスラビアに連れて行って欲しいと懇願した守屋の行動は、いくら彼女に触発されていたとはいえ、あまりに突拍子がなく理解を超えるものだ。現実変革を試みようとする彼の意思を汲み取ることは難しくないが、それはあまりに浅はかな、劇的なるものへの憧れだけが先行した幼さの証明に過ぎないのである。彼の行為を「観光」と厳しく切り捨てたマーヤは正しい。彼は彼の想像のなかでユーゴスラビアという虚構を作り上げ、「ここではないどこか」に重ね合わせた。それは実際の、本当のユーゴスラビアなんかではなかった。しかしだからこそ終盤、彼が最後の推理を働かせてマーヤの帰国先を突き止める場面は、「ここではないどこか」を漠然と希求していたに過ぎなかった彼が、ボスニア・ヘルツェゴヴィナという明確な場所を見出すことで、マーヤの現実に関係しうる可能性を初めて掴みかけたという意味で感動的なのである。その後、太刀洗の非難に臆することなく、「わかっているが、決めたんだ」と毅然な態度で答える守屋を、もはや軽んずることは出来ないだろう。
 さて、物語は静かに閉じられる。マーヤの死は、実兄の手紙の、太刀洗によって翻訳されたぎこちない文章によって淡々と綴られるのみだ。守屋はまたしても現実から拒まれ、放心状態のなかでかろうじてユーゴスラビアの調査を続けるか否かを自問する。それは「マーヤを殺したものの正体を突き止める」ことであり、彼の自己変革の僅かな萌芽でさえあるかも知れない。ユーゴスラビアの内紛は虚構だが、それがもたらした一人の少女の死は紛れもない真実なのである。しかし彼は答えを出すことが出来ない。作者もまた答えを提示しない。外部と関係することで自らの現実を組み替えられるかもしれない可能性だけが示されたまま物語は終わるのだ。しかしだからといってこの作品は、ただ絶望感を与えるだけものではない。マーヤの抱いていた希望を、しなやかな強さを手に入れるべく、少年が始めなければならないのは、このすべてが終わったあとの荒野からだ。その成長の予感を透徹した厳しさのなかに感じさせる結末は見事だと言わなければならない。

明日は、いつもの僕さ

耳をすませば [DVD]
 Hang Reviewers Highのソメルさんより、リンクを張っていただいた。作品に正対する姿勢を失わずに一貫された態度で書き連ねられていく力強い文章を読んで、一読者として感服するばかりだった素晴らしいサイトであるだけに、驚きと喜びでいっぱいだ。
 ところで同サイトで以前に取り上げられていた『耳をすませば』を、ぼくも昨日観かえしていた。もともとジブリ映画随一の傑作だと信じて疑わなかったのだけれど、改めて観賞してみると、ストーリーや舞台設定などで記憶との相違がずいぶん見受けられた。雫ってあんなに庶民的な団地に住んでいたっけ等。原作もよく読んでいたので、イメージが混在してしまったのかも知れない。ともあれ今ふたたび観賞して驚いたのは、これはまさに今現在のぼくの気分を踏襲した作品であるということだった。泣き出したくなるような不安に押しつぶされながら物語を書き上げた雫の、「荒々しくて率直で、未完成」な力こそ、ぼくが今もっとも必要とする原動力にほかならない。今は雫の気持ちがよく分かる。ぼくは素敵でありたい。なりたい自分になりたいのだ。
 あったかも知れない青春の日々を懐かしんで、今の自分から引き剥がして満足するにはあまりに重要な問題を孕んだ作品。年甲斐もないなんて関係ない。これは今なにかを始めようとする人々にとって、まさしく現在進行形の物語なのである。

のび太の結婚前夜

映画のび太の結婚前夜 (てんとう虫コミックスアニメ版)
 恋による相変わらず不安定な情況のなか、せっかくの連休を入院患者のような気分で過ごしてしまうことを憂い、気晴らしに友人と飲みに出かけたり、兼ねてより欲しかったCDJの購入を検討すべく必要な機材の情報収集などに没頭することでやり過ごしていた。それでも厭世的な気分に陥りがちな自分に対しては、たとえば岡村靖幸が前向きで正直であることの勇気を与えてくれた。『ミラクルジャンプ』のPVのなかで、プロレスに熱狂する群衆をよそにひたすら歌い踊り続けるというポジションを選んだこの最高に純情な天才の姿を、涙の滲んだ目でひたと見つめながら、ぼくも「困難にジャンプしてキス」する気持ちを失わずに「シャイでひきこもりの日常を返上したい」と心に誓った。今の状況はほかならぬ自分が覚悟して選んだことだ。こんなところで挫けるのは自分に対してあまりに失礼である。
 とはいえそういった気分なので本を読んでもあまり頭に入らず、音楽を聴くようなわりと楽な観賞の仕方が多い日々なのだけれども、こないだどうしても観たいと思った『のび太結婚前夜』を観たのだった。
 ドラえもんという作品については思い入れという言葉ではとても捉えきれないほどの影響を受けているわけで、さながら成長する自分の膝元にぴったりと寄り添い続ける飼い猫のようなものである。
 もっとも古い記憶を辿れば、幼稚園の頃に通っていた床屋が思い出される。大通りに面した赤茶けた雑居ビルにテナントを構えており、口ひげをたくわえたダリみたいな主人が個人で経営していた。ぼくは母と同じタイミングで散髪をおこなっていたのだが、刈り上げにするだけのぼくの頭はすぐに済んでしまうのだった。そこで母を待つあいだ、気を利かせた主人が待合室に置かれたテレビでドラえもんの長篇映画を流してくれたのが始まりだったと思う。ぼくは食い入るように観た。散髪に行くことはドラえもんの映画を観に行くことと同義になっていった。それから年を取って自分でコミックを買ったりテレビを観たり劇場に足を運んだりするうちに、ドラえもんは自然なかたちでぼくのなかに血肉化されていったのだった。
 どんな願いも未来の道具で叶えてしまう。空を自由に飛びまわり行きたい所へはどこにだって連れて行ったドラえもんは、少年時代の憧れであり象徴だった。そして万能の道具に頼らずに最後は自分の力で立たなければならないことを教えてくれたのもドラえもんだった。のび太を始めとする仲間たちはぼく自身の断片であって、だからこそ友情を確かめ合い、支え合い、弱さを克服して立ち上がろうとする彼らの姿には計り知れない感動を覚えるのだ。
 『のび太結婚前夜』はドラえもんという作品のエピローグ的な部分に位置していると思う。大人になったのび太たちの世界に、ドラえもんはいない。かつての冒険譚は思い出として語られさえしない。少年時代の象徴であったドラえもんは、まさしく象徴であるがゆえに消えなければならない存在である(この事実に対して抗おうとすると同じ作者の描いた『劇画オバQ』の世界になってしまう!)。この感動的な作品を観て思うのは、ひとつにそんなことだ。しかしだからといってそれが絶望であるというわけではもちろんない。

いつのまにか
ぼくは夜中に、ひとりでトイレにいけるようになった。
ひとりで電車に乗って、
会社に通うようになった。
でも、ほんとうにぼくは
かわったのかなぁ。
ドラえもん
ぼくはあした、結婚するよ。

 冒頭の感動的なモノローグでは、結婚という節目を前にして、現在の自分に迷いを覚えながらそれでも未来に向かって歩き出そうとしている大人としてののび太が、かなり的確に表現されている。また劇中、夜の河川敷の草に寝そべってドラえもんの名を唯一口にする場面では、のび太の声の調子は感慨の込められた懐かしさに充ちていた。確かにのび太タケコプターを置いて電車に乗るようになったけれど、心のなかでは今もドラえもんと一緒に空を自由に飛びまわっていた少年時代がしっかりと息づいているに違いない。それはもちろんのび太以外のキャラクターにおいても、ひいてはドラえもんを心の底から愛したぼくのような視聴者だって同様なのだ。だから引用したモノローグはのび太の気持ちであるとともにぼく自身のそれである。
 こうして素晴らしい作品たちに励まされながら、GWは折り返しを迎えようとしているのである。