のび太の結婚前夜

映画のび太の結婚前夜 (てんとう虫コミックスアニメ版)
 恋による相変わらず不安定な情況のなか、せっかくの連休を入院患者のような気分で過ごしてしまうことを憂い、気晴らしに友人と飲みに出かけたり、兼ねてより欲しかったCDJの購入を検討すべく必要な機材の情報収集などに没頭することでやり過ごしていた。それでも厭世的な気分に陥りがちな自分に対しては、たとえば岡村靖幸が前向きで正直であることの勇気を与えてくれた。『ミラクルジャンプ』のPVのなかで、プロレスに熱狂する群衆をよそにひたすら歌い踊り続けるというポジションを選んだこの最高に純情な天才の姿を、涙の滲んだ目でひたと見つめながら、ぼくも「困難にジャンプしてキス」する気持ちを失わずに「シャイでひきこもりの日常を返上したい」と心に誓った。今の状況はほかならぬ自分が覚悟して選んだことだ。こんなところで挫けるのは自分に対してあまりに失礼である。
 とはいえそういった気分なので本を読んでもあまり頭に入らず、音楽を聴くようなわりと楽な観賞の仕方が多い日々なのだけれども、こないだどうしても観たいと思った『のび太結婚前夜』を観たのだった。
 ドラえもんという作品については思い入れという言葉ではとても捉えきれないほどの影響を受けているわけで、さながら成長する自分の膝元にぴったりと寄り添い続ける飼い猫のようなものである。
 もっとも古い記憶を辿れば、幼稚園の頃に通っていた床屋が思い出される。大通りに面した赤茶けた雑居ビルにテナントを構えており、口ひげをたくわえたダリみたいな主人が個人で経営していた。ぼくは母と同じタイミングで散髪をおこなっていたのだが、刈り上げにするだけのぼくの頭はすぐに済んでしまうのだった。そこで母を待つあいだ、気を利かせた主人が待合室に置かれたテレビでドラえもんの長篇映画を流してくれたのが始まりだったと思う。ぼくは食い入るように観た。散髪に行くことはドラえもんの映画を観に行くことと同義になっていった。それから年を取って自分でコミックを買ったりテレビを観たり劇場に足を運んだりするうちに、ドラえもんは自然なかたちでぼくのなかに血肉化されていったのだった。
 どんな願いも未来の道具で叶えてしまう。空を自由に飛びまわり行きたい所へはどこにだって連れて行ったドラえもんは、少年時代の憧れであり象徴だった。そして万能の道具に頼らずに最後は自分の力で立たなければならないことを教えてくれたのもドラえもんだった。のび太を始めとする仲間たちはぼく自身の断片であって、だからこそ友情を確かめ合い、支え合い、弱さを克服して立ち上がろうとする彼らの姿には計り知れない感動を覚えるのだ。
 『のび太結婚前夜』はドラえもんという作品のエピローグ的な部分に位置していると思う。大人になったのび太たちの世界に、ドラえもんはいない。かつての冒険譚は思い出として語られさえしない。少年時代の象徴であったドラえもんは、まさしく象徴であるがゆえに消えなければならない存在である(この事実に対して抗おうとすると同じ作者の描いた『劇画オバQ』の世界になってしまう!)。この感動的な作品を観て思うのは、ひとつにそんなことだ。しかしだからといってそれが絶望であるというわけではもちろんない。

いつのまにか
ぼくは夜中に、ひとりでトイレにいけるようになった。
ひとりで電車に乗って、
会社に通うようになった。
でも、ほんとうにぼくは
かわったのかなぁ。
ドラえもん
ぼくはあした、結婚するよ。

 冒頭の感動的なモノローグでは、結婚という節目を前にして、現在の自分に迷いを覚えながらそれでも未来に向かって歩き出そうとしている大人としてののび太が、かなり的確に表現されている。また劇中、夜の河川敷の草に寝そべってドラえもんの名を唯一口にする場面では、のび太の声の調子は感慨の込められた懐かしさに充ちていた。確かにのび太タケコプターを置いて電車に乗るようになったけれど、心のなかでは今もドラえもんと一緒に空を自由に飛びまわっていた少年時代がしっかりと息づいているに違いない。それはもちろんのび太以外のキャラクターにおいても、ひいてはドラえもんを心の底から愛したぼくのような視聴者だって同様なのだ。だから引用したモノローグはのび太の気持ちであるとともにぼく自身のそれである。
 こうして素晴らしい作品たちに励まされながら、GWは折り返しを迎えようとしているのである。