ブラスト公論─誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない

ブラスト公論―誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない
 きっかけは、「時をかける少女」のDVD-BOXに封入されていたハンドブックに、監督の細田守とライムスターの宇多丸の対談が掲載されていたのを読んで、彼の音楽以外の活動に興味を持ったからだった。もともとBUBKAのマブ論やスペースシャワーTV第三会議室といった活動について情報として知ってはいたが、まずは商品として流通されていて、かつ容易に入手できるものから選ぶことにして、手に取ったのが本書である。
 『ブラスト公論─誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない』は、ヒップホップ誌「BLAST」内で2000年から約四年にわたって連載されていたコーナーを一冊にまとめたものである。内外の時事ネタやその時々に興味関心のあった話題を居酒屋での座談会という形式で語り合うというもので、参加メンバーは宇多丸を始め、フリーライター古川耕、フォトグラファーの前原猛、当時ファッション・ディレクターであった郷原紀幸、音楽ジャーナリストの高橋芳朗といった、通称公論クルーによって構成されている。読み始めた当初は彼らの素性などまったく知らなかったのだけれど、にもかかわらず、最終的に僕はこの本をかなり楽しく読むことが出来た。なるほど、取り上げられるトピックには時代を感じさせるものが決して少なくないが、『ブラスト公論』にはそういった問題を問題とさせない確かな魅力があると思っている。
 それは第一に書き起こされたトークを読む純粋な面白さに因るものだ。読んでいくうちに無名だった彼らの性格や考え方が見えてきて、次第にキャラクター像が確立されていく。例えば宇多丸はロジカルに会話を展開させようとするけれど、前原はわりと感覚的に物を言う傾向があって、そのあいだを郷原はマイペースにすり抜けようとして、それらに同調したり反発したりしながら、古川や高橋が話の舵取りをおこなうといった具合に。妄想やモテ話、中高時代の甘酸っぱい思い出など共感を誘いやすい身近な話題から当時の社会的出来事まで、冗談とも本気ともつかない調子で痛快に切り込んでいく。こんなことをわざわざ書くのは野暮かも知れないが、気心知れた彼らの会話そのものがジャズのフリーセッションの如く互いを刺激し合いながら、それを積み上げたり突き崩したりする。会話そのものの快楽が、臨場感を伴って伝わってくるというわけだ。
 本書の魅力はそれだけに留まることなく、むしろ次に述べることが重要であるかもしれない。すなわち、数々のトピックに言及していく彼らの語りの態度についてだ。ヒップホップ誌に連載されていながら、なるべくヒップホップ文化とは関係のない事象について語るというコンセプトのもとで開始されたのが『ブラスト公論』であった。その副題「誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない」について、連載終了後におこなわれた同窓会のなかで次のような説明がなされている。

 高橋 タイトルについては?「誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない」。
 古川 豪邸的価値観っていうのはその時代その時代に形を変えてあるわけですから。
 宇多丸 勝ち組負け組とかね。ただね、「負け組でもいいじゃない!」って言ってる
     わけじゃなくて、その二分法を拒否するって言ってるわけですからね……
     そこは言っておきたいですよ。 
 古川 そう、「だからあばら屋でもいいじゃない!」ではないんですよ、このタイトルは
    決して。「誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない」という現実の在り方について
    僕たちは喋ってるんだ、ってことですね。
 (中略)
 宇多丸 あとは自分の現状がダメだと思うならね、なんにも努力してない奴にいいこと
     なんてあるわけねぇだろっていう……しょうがねぇよ!

 豪邸的価値観を嘲るわけでもなく、かといってあばら屋的価値観を敢えて擁護するような真似もしない。対立構造そのものに違和感を唱えるのである。物事をフラットな地平に捉えなおしたうえで、自分のモラルでもって解釈を与える。そして、それもまたひとつの意見に過ぎないことを当然心得ているから、彼らの言葉は独善に陥らないでつねに他人に向かって開かれたものになる。仲間内だけの排他的な会話として退行せずに、読者に対して解釈の余地を残しながら、かつ俺は俺だよというレペゼン精神でもって語られている。本書が素晴らしい所以はまさにそこにある。彼らはその語りの調子に反して非常にまっとうなのだ。そうでなければ、引用した部分のような言葉を宇多丸が口にすることは出来ないだろう。
 全体的に軽妙なノリで進行しながら、その内実は自分の言葉で誠実に語ろうとする男達の見識に溢れている。彼らはとても素晴らしく、自分の生活にも大きな励みになると感じた。