鬼火

鬼火 [DVD]
 なんとなく忙しい週が続いてしまいブログを更新することがまったく出来なかった。これは良くない。本来であればどれだけ多忙であろうと生活の中に更新作業を習慣づける必要があるというのに徹底出来ていないのだ。活路は此処だ。頑張ろう。
 ところで最近夢を見る。内容なんだけど、好きな相手に対してつねに無力である自分が暴露されるという身も蓋もない悲惨なシチュエーションが多い。未熟な精神ゆえに他人とのクリティカルな状況において硬直せざるを得ず、悲嘆に暮れて助けを求める相手にただ手をこまねいて傍観することしか出来ないまま後味の悪い寝覚めを経験している。深層意識をいとも簡単に釣り上げる夢とはそれゆえ隠しておきたい部分を容赦なく露わにしてしまう。生活環境の若干の変化とか精神状態などに影響されているのだろうけど、最近になって『鬼火』を観直したことも関係しているかも知れない。フランス映画の巨匠ルイ・マルが1963年に発表した、ぼくがもっとも愛する映画のひとつである。

僕は待っている
何かを ただひたすら……

 物語は、華やかなパリの社交界で金と女を追い駆ける自由を謳歌していた主人公アラン・ルロワが、日々の精神的軋轢とアルコールに倒れて半年間の療養生活を余儀なくされた結果、人生の色ガラスを失い、他人に恐怖し、深い虚無感から自殺を決意、その決行までの二日間を描く。人生を脚色できなくなった彼は、袋小路の現実を打破する物語を創造することが出来ない。病院の室内には、かつての恋人との思い出や死亡記事のスクラップが所狭しと貼られている。過去に閉じこもりながら死の観念を弄ぶ男の危うい状況が見えてくる。
 かくして、かつての友人のもとを訪ねて歩く場面は、自分を理解して受け入れてくれる人々を求める救済の遍歴だった。ところが、神秘主義に傾倒して家庭という安定を選んだ男、芸術を愛しドラッグに陶酔するデカダン、政治運動を諦めない前科犯など、境遇は違えどそれぞれの人生を手にしている彼らを前に、アランはますます疎外感を募らせていく。自分を置き去りにして変化のなかに順応していく仲間達に焦りと嫉妬を覚え、苦し紛れの非難の言葉を吐く場面などは、観ていてかなり痛々しいものがある。ある友人は彼に向かって言う。「平凡に満足しろ、いずれ幻想に気づく。卑怯だぞ。弱いぞ。怠惰だ。自信が無いんだ」ああ、正論が人を殺す! アランが欲しかったのはそんな言葉じゃなかった。彼は鼓舞される為に仲間を訪れたのではなかったのだ。「人生はいい」そうなのかも知れない。しかし、人々がそう口にするとき、アランは悲しげに顔を伏せるだけだ。

結局どうしたいの?
皆をつかまえ
縛っておきたかった
愛されたかった
愛するように

 心にどうしようもない空虚を抱えてしまった男が最期に見出した希望は愛による救済だった。自分の傍に居てさえしてくれればそれだけ良かった。差し伸べる手を握り返してくれれば良かった。愛の言葉でもって彼を受け入れてくれさえすれば、彼は再起の道を見出すことが出来たはずだろう。作品に登場する女性たちはアランに対して一定の親愛を示しているように見える。しかし彼はすぐそこに限界を嗅ぎ取ってしまう。「皆あなたのことが好きなのよ」と最愛の女性ソランジュが投げかけたとき、彼の顔に浮かんだ失望は筆舌に尽くしがたい。

僕には力がない
心があるわ
分からないな

 彼が口にする力とは、金や地位や腕力といったスノッブな欲望、目に見えて確実な力のことを指している。絢爛なパリでの刹那的な日々が見せた哀しい幻影だ。自死の直前で交わした会話でさえ、彼はソランジュとの致命的なディスコミュニケーションを体験してしまう。そして彼は死ぬ。現実を打開する術に自殺という選択をすることで。死という圧倒的な力にとり憑かれた男の悲壮な末路。
 彼が死なない道を模索することは、すなわち僕自身が生きることでもある。アランは僕自身だと言い切れないまでも、彼に対する言及がそのまま牙を向いて自分に跳ね返ってくるのを感じる。アランは僕の可能性の一部として確かに存在しているのだ。だからこの映画は怖ろしい求心力でもって自分を刺激してくる。槌で殴りつけるような重たい痛みを感じる。このブログはある切実さでもってひとつの回答を目指して突き進む。『鬼火』に登場するアラン・ルロワは、それに向けられた強烈な問題提起である。
 彼の心象を反映したようなモノクロの映像にエリック・サティの静謐で美しく物悲しい音色が絡まり、無為と孤独の世界のうちに透明な緊張感が張り詰めた傑作。最後に彼をもっとも的確に表現した、女友達エヴァの言葉を引いておこう。自堕落な彼らの生活を非難するアランに対して「落伍者のひがみだ」と嘲笑う芸術家グループ。彼らに向かって返した言葉。

ちがうわ やさしい人よ
とても不幸な