つながる気持ち、ひろがる想い

zanussi2007-03-30

聖桜学園は、何も変わっていません。
でも、わたしは少しだけ、変わろうと思います。

 日曜日の深夜アニメを観るのは、ある種の覚悟が必要だと思った。次の日のことがどうしても頭を過ぎってしまい、作品と正対することが出来ない気がして。現実と虚構の板ばさみに遭い、気分が落ち着かないような。ところが『まなびストレート!』を観ていると明日は決して憂鬱なものではなくなってくるのだった。アントナン・アルトーは「観客は劇場を出るとき、手術を受けたような気持ちにならなければならない」と語っていた。その言葉は『まなびストレート!』を観賞するうえでまったく正しい。優しく、そして力強くまっすぐに、視聴者の背中を明日に向かって押してくれるもの。『まなびストレート!』はぼくの動力だった。そのことはぜひともブログに書かなければならない。

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嘘でその場をうまくやりすごしても きっと くやむから
過去も未来も もちろん今も 全て背負うのは自分だもの 悩もう

 岡崎律子の作詞された世界は『まなびストレート!』そのものである。だからオープニングとエンディングを注意深く聴けばこの物語が何であるのか、すべては初めから歌われているのであった。ここでは、天宮学美というキャラクターを巡って、作品における行動することと想像することについて少し書いてみたい。

学生さんはもう全力で経験しました。
だから今度は全力で働いてみたいんだ!

 やりたいことをやる。そして、つねに全力であれ。じっさい作品のなかで、学美はそのように行動してきた。学生であることと、働きに出ること。彼女にとってはすべてが等しい。学美の発言を受けて芽生は「働くことを選ぶか、学生を選ぶか。そういう風に悩むパターン自体、天宮さんには当てはまらないのかも知れないわね」と語る。全力になれるものがあれば、対象は何だって構わないのだ。この彼女の驚異は、彼女自身の生い立ちを知ることである程度理解することが出来る。親の都合で世界各地を点々と巡らざるを得なかった幼少時代、土地が「住む」ものではなく「去る」ものであった彼女にとって、一瞬の尊さは何より大事にしなければならない実感だった。だから彼女は手を抜かない。やりたいことをやる。全力で。聖桜学園に転校してきた彼女にとって、まずその対象は生徒会の再生であり、学園祭の開催にあった。
 ところが、学美の態度を社会的な効用という意味に還元しようとする大人がいる。

多くの若者がより楽しいことを求めて学校を去る中、
あえて学生という立場を選択しているあなた達が今、
楽しいだけのお祭りをする意味はなんですか?

 愛洸学園理事長である鏡子がこのように問い掛けるとき、学美は、いわば「楽しいだけのお祭りをする意味"を超えた意味"」を信じていたと言える。楽しいことを求めて放課後や週末を慌ただしく過ごす若者たちが、楽しさを手軽に享受しながら、そのじつ楽しさに追い回されるという主従関係の転倒。それが所与のものであった彼らは、求めることに反して実に受け身な存在である。学美たちが目指したものは、まさしく主体性の回復としての、誰の真似でもない、世界にたったひとつの学園祭を開催することだった。それは同時に、その過程で湧き起こるさまざまな喜びや苦労を仲間と分かち合うことのかけがえのなさ、強い実感を得ることである。何かを始めるのに不安を感じるのは当然で、だけどそれ以上に変えがたい経験が得られると信じている。それこそが「意味を超えた意味」、つまり「きらきらわくわく」の本質なのだった。学園祭の準備に励む生徒たちを見て光香が呟く言葉は示唆的である。「思ったんだけどね、これって、学園祭みたいだよね」

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 では学美は、どのようにして人々を惹きつけることが出来たのか。『まなびストレート!』におけるコミュニケーションのあり方について言及することで、この疑問に答えたい。
 まず、この作品では、ものが伝わるということが、「分かる/分からない」ではなく「見える/見えない」という基準で語られている。まるで言葉というものが、相手との距離にロジックでもって架橋するのではなくて、イメージでもって手を差し伸べているようだ。たとえば第一話で校歌を歌う場面や、第三話で学園祭の意気込みを語る場面で、それは顕著な視覚効果として表現されている。
 これもまた、学美の生い立ちに深く起因しているのではないかと思う。つまり、遠い異国の地という言葉に頼れない環境が続くなか、おのずと彼女が身につけた方法なのではないか。端的に言えば、彼女は人の想像力を信じている。言葉が伝わらなくとも、伝えたいという想いは伝わる。作品内で視覚化された学美の世界は、それに共感する人々の想像力が働いていることを示している。そう考える時、「まっすぐGO!」という学美の座右の銘が、言葉よりもまずはじめに動作ありきと思えるほど、あの腕を前に突き出すポーズ自体に意味があると思われるのだ。そしてもちろん想像力とは創造力であるから、『まなびストレート!』とは想像力(創造力)を信じる物語だったと言えるかも知れない。

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 ぼくの解釈が夢想的でいささか誇張されたものであることは否定しない。しかし、同じ夢を見られるかもしれないという希望を持たずして、ひとは他人に対してどれだけ誠実になれるのだろうか。粗を探そうと目を光らせたり、熱狂のあまり排他的に反論を退ける態度も、ひとつの眠りからもうひとつの眠りに落ち込むという意味では同じことだ。

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 それにしても岡崎律子というひとは何て正直なひとだったのだろう。彼女の詞はあまりに誠実であるがゆえに、ぼくなんかはほとんどショックを起こすぐらいの気持ちだ。詞を見ることにとても勇気を要する。
 話もとりとめがなくなってきたのでここで終わりにしたいですが、最後に言えることは、まずは『まなびストレート!』という作品をまっすぐに見てみようということです。本当は言葉なんていらないと思うのだけど、今はこうして一定のことを書き続けるのが重要なのだと思っている。ほかならぬ、あなたに向けた文章を。言葉のみで、言葉を耐えよ。本当の出会いの意味が分かるまで。