何度もぼくはキラキラを

 依然不安定ですが先日アマゾンより届いた『時をかける少女』を観てまた元気を貰いました。もちろん大林監督の時かけも傑作である。胸を打つ切なさを与えるラストシーンはひとつの作品として見事な幕引きとなっていた。しかし細田監督は作品としての完成度はもとより現在という時代の気分までをも取り込むことで、作品の結末を未来に向けて開かれたものとして描いた。存在を圧倒するほど眼前に広げられた青空と入道雲の力強さに、何があろうとまず飛び込むべき希望に満ちた明日があるのだということを黙して語らせる。ぼくたち時は止められないがターニングポイントにはいつだって立てる。それは自分で決めるものだ。今はこのまっとうさが本当に頼もしいのです。
 あと本日は買い物等。チャットモンチーの『シャングリラ』『耳鳴り』、あとdetune.の『わ・を・ん』を買った。ポップポップ。

ぼくたちたまに話す程度でいいなんて思わない

 ご機嫌いかが? 今日はカフェで読書等。どこか上の空だったのは、今年の春から入社してきた新人の女の子が気になっているからである。この二週間彼女の指導役としてずっと付きっきりだったのがいけない。小柄で一見大人しそうな印象だが話すと思いのほか気丈な子で、充実した人生を送ってきた者の聡明な輝きと、それを鼻にかけない自然で素直な空気が同居していて、ときどきこぼれる笑顔にすっかり惹かれてしまったようなのだ。ぼくはまっすぐ健気に生きている子が好みらしい! 但しあいにく恋人アリ。それより身近な問題として研修を終えてしまった為にぼくが話しかけていい理由が失われつつあって、背中越しに笑い声を聴いたりすると気が気でなく、なんて浅ましい嫉妬心だと自己嫌悪に陥ったり……そのおかげで不安定な日々だったのだが、今はすこし前向きに純粋な興味でもって遊びに誘える関係が作れたらなと考えています。
 作品に対して無理した態度になっていることに気がついた。まだまだ好奇心が足りないな。
 LapinさんのDJMIXが素敵。元気出ました。

鬼火

鬼火 [DVD]
 なんとなく忙しい週が続いてしまいブログを更新することがまったく出来なかった。これは良くない。本来であればどれだけ多忙であろうと生活の中に更新作業を習慣づける必要があるというのに徹底出来ていないのだ。活路は此処だ。頑張ろう。
 ところで最近夢を見る。内容なんだけど、好きな相手に対してつねに無力である自分が暴露されるという身も蓋もない悲惨なシチュエーションが多い。未熟な精神ゆえに他人とのクリティカルな状況において硬直せざるを得ず、悲嘆に暮れて助けを求める相手にただ手をこまねいて傍観することしか出来ないまま後味の悪い寝覚めを経験している。深層意識をいとも簡単に釣り上げる夢とはそれゆえ隠しておきたい部分を容赦なく露わにしてしまう。生活環境の若干の変化とか精神状態などに影響されているのだろうけど、最近になって『鬼火』を観直したことも関係しているかも知れない。フランス映画の巨匠ルイ・マルが1963年に発表した、ぼくがもっとも愛する映画のひとつである。

僕は待っている
何かを ただひたすら……

 物語は、華やかなパリの社交界で金と女を追い駆ける自由を謳歌していた主人公アラン・ルロワが、日々の精神的軋轢とアルコールに倒れて半年間の療養生活を余儀なくされた結果、人生の色ガラスを失い、他人に恐怖し、深い虚無感から自殺を決意、その決行までの二日間を描く。人生を脚色できなくなった彼は、袋小路の現実を打破する物語を創造することが出来ない。病院の室内には、かつての恋人との思い出や死亡記事のスクラップが所狭しと貼られている。過去に閉じこもりながら死の観念を弄ぶ男の危うい状況が見えてくる。
 かくして、かつての友人のもとを訪ねて歩く場面は、自分を理解して受け入れてくれる人々を求める救済の遍歴だった。ところが、神秘主義に傾倒して家庭という安定を選んだ男、芸術を愛しドラッグに陶酔するデカダン、政治運動を諦めない前科犯など、境遇は違えどそれぞれの人生を手にしている彼らを前に、アランはますます疎外感を募らせていく。自分を置き去りにして変化のなかに順応していく仲間達に焦りと嫉妬を覚え、苦し紛れの非難の言葉を吐く場面などは、観ていてかなり痛々しいものがある。ある友人は彼に向かって言う。「平凡に満足しろ、いずれ幻想に気づく。卑怯だぞ。弱いぞ。怠惰だ。自信が無いんだ」ああ、正論が人を殺す! アランが欲しかったのはそんな言葉じゃなかった。彼は鼓舞される為に仲間を訪れたのではなかったのだ。「人生はいい」そうなのかも知れない。しかし、人々がそう口にするとき、アランは悲しげに顔を伏せるだけだ。

結局どうしたいの?
皆をつかまえ
縛っておきたかった
愛されたかった
愛するように

 心にどうしようもない空虚を抱えてしまった男が最期に見出した希望は愛による救済だった。自分の傍に居てさえしてくれればそれだけ良かった。差し伸べる手を握り返してくれれば良かった。愛の言葉でもって彼を受け入れてくれさえすれば、彼は再起の道を見出すことが出来たはずだろう。作品に登場する女性たちはアランに対して一定の親愛を示しているように見える。しかし彼はすぐそこに限界を嗅ぎ取ってしまう。「皆あなたのことが好きなのよ」と最愛の女性ソランジュが投げかけたとき、彼の顔に浮かんだ失望は筆舌に尽くしがたい。

僕には力がない
心があるわ
分からないな

 彼が口にする力とは、金や地位や腕力といったスノッブな欲望、目に見えて確実な力のことを指している。絢爛なパリでの刹那的な日々が見せた哀しい幻影だ。自死の直前で交わした会話でさえ、彼はソランジュとの致命的なディスコミュニケーションを体験してしまう。そして彼は死ぬ。現実を打開する術に自殺という選択をすることで。死という圧倒的な力にとり憑かれた男の悲壮な末路。
 彼が死なない道を模索することは、すなわち僕自身が生きることでもある。アランは僕自身だと言い切れないまでも、彼に対する言及がそのまま牙を向いて自分に跳ね返ってくるのを感じる。アランは僕の可能性の一部として確かに存在しているのだ。だからこの映画は怖ろしい求心力でもって自分を刺激してくる。槌で殴りつけるような重たい痛みを感じる。このブログはある切実さでもってひとつの回答を目指して突き進む。『鬼火』に登場するアラン・ルロワは、それに向けられた強烈な問題提起である。
 彼の心象を反映したようなモノクロの映像にエリック・サティの静謐で美しく物悲しい音色が絡まり、無為と孤独の世界のうちに透明な緊張感が張り詰めた傑作。最後に彼をもっとも的確に表現した、女友達エヴァの言葉を引いておこう。自堕落な彼らの生活を非難するアランに対して「落伍者のひがみだ」と嘲笑う芸術家グループ。彼らに向かって返した言葉。

ちがうわ やさしい人よ
とても不幸な

瀉血ごと散りゆく櫻ひとひらひら

 昨日から頭が重たい。なかに重油が溜まっていて傾けるたびにゆらりゆらりと酩酊にも似た感覚だ。その為午前中の入社式を終えたあとは家に帰ってなんとなく横になったり本を読んだりしていた。帰りがけにいくつかビデオを借りた。ルイ・マルの『鬼火』をまた観る。これについは近々文章を書きたいと思っている。
 日曜日はネットで本を注文した。Serge Nazarieffが蒐集した19世紀から20世紀の西洋におけるスパンキングの写真だけを選りすぐった『JEUX DE DAMES CRUELLES 1850-1960』、あとは今年一月にTACEHNから発売されたJan Saudekの画集等。また先日注文していた東京ミュウミュウのキャラクターソングスコレクターズボックスが届く。新品で2000円程度だったのでお得な買い物だが期待していたわりにどれも肩透かしを喰らってしまった。唯一、桃宮いちごの「Strawberry Power」だけが傑出した出来映え。作曲は荻野ヒデキ。検索するがまったくヒットせずに謎の人物である。本作品でもこの曲しか仕事していないので実に惜しいと思う。

* * *

 暖かい陽気が居直ったように春の到来を告げていた。聞けば明日は雨模様でまた寒いとか。しかし麗らかな空気のなかで町行く人々は穏健そのものであった。
 近所に某学園の講堂がある。現在は主に式場として利用されており、休日にもなると花婿と花嫁を囲って多くの人々が賑わっているのだけど、今日も挙式が行われていたようで、ぼくが通りかかったときには、満開の桜のもと思い思いに写真を撮ったり談笑を交わすなどしていた。柵を隔てた通りには、見物客が足を止めて彼らの幸福にあやかろうとその様子を惚れ惚れと眺めている。カップルはひょっとしたら未来の光景に想いを馳せ、夫婦は在りし日の記憶を懐かしみ、老父母は継承される幸せに何度も頷く。子供はわけも分からず足元の散った桜を弄って遊んでいる。一人のぼくは自転車に乗ってゆっくりと通り過ぎる。
 同じ仕事に就くならば、このように幸福な空気をいつも新鮮に吸い込めるものが良いのだろうか。とは言っても気苦労は耐えないのだろうし、ウエディングプランナーの婚期が遅れるのは幸せ呆けするからだと聞く。ちなみに、ぼくの母はパートで葬儀場の介錯人めいた仕事をしているが、告別式後の会席でチップが貰えると大喜びだった。冠婚葬祭とはいえ時間軸で仕事の質はまったく異なる。ぼくは、どちらかと言えば母の仕事の方に惹かれる。

* * *

 それから、仕事用にYシャツ一着とネクタイを買って、帰りに本屋でブルーノ・ムナーリ『ファンタジア』、鳴子ハナハルかみちゅ!』第二巻を購入した。

つながる気持ち、ひろがる想い

zanussi2007-03-30

聖桜学園は、何も変わっていません。
でも、わたしは少しだけ、変わろうと思います。

 日曜日の深夜アニメを観るのは、ある種の覚悟が必要だと思った。次の日のことがどうしても頭を過ぎってしまい、作品と正対することが出来ない気がして。現実と虚構の板ばさみに遭い、気分が落ち着かないような。ところが『まなびストレート!』を観ていると明日は決して憂鬱なものではなくなってくるのだった。アントナン・アルトーは「観客は劇場を出るとき、手術を受けたような気持ちにならなければならない」と語っていた。その言葉は『まなびストレート!』を観賞するうえでまったく正しい。優しく、そして力強くまっすぐに、視聴者の背中を明日に向かって押してくれるもの。『まなびストレート!』はぼくの動力だった。そのことはぜひともブログに書かなければならない。

* * *

嘘でその場をうまくやりすごしても きっと くやむから
過去も未来も もちろん今も 全て背負うのは自分だもの 悩もう

 岡崎律子の作詞された世界は『まなびストレート!』そのものである。だからオープニングとエンディングを注意深く聴けばこの物語が何であるのか、すべては初めから歌われているのであった。ここでは、天宮学美というキャラクターを巡って、作品における行動することと想像することについて少し書いてみたい。

学生さんはもう全力で経験しました。
だから今度は全力で働いてみたいんだ!

 やりたいことをやる。そして、つねに全力であれ。じっさい作品のなかで、学美はそのように行動してきた。学生であることと、働きに出ること。彼女にとってはすべてが等しい。学美の発言を受けて芽生は「働くことを選ぶか、学生を選ぶか。そういう風に悩むパターン自体、天宮さんには当てはまらないのかも知れないわね」と語る。全力になれるものがあれば、対象は何だって構わないのだ。この彼女の驚異は、彼女自身の生い立ちを知ることである程度理解することが出来る。親の都合で世界各地を点々と巡らざるを得なかった幼少時代、土地が「住む」ものではなく「去る」ものであった彼女にとって、一瞬の尊さは何より大事にしなければならない実感だった。だから彼女は手を抜かない。やりたいことをやる。全力で。聖桜学園に転校してきた彼女にとって、まずその対象は生徒会の再生であり、学園祭の開催にあった。
 ところが、学美の態度を社会的な効用という意味に還元しようとする大人がいる。

多くの若者がより楽しいことを求めて学校を去る中、
あえて学生という立場を選択しているあなた達が今、
楽しいだけのお祭りをする意味はなんですか?

 愛洸学園理事長である鏡子がこのように問い掛けるとき、学美は、いわば「楽しいだけのお祭りをする意味"を超えた意味"」を信じていたと言える。楽しいことを求めて放課後や週末を慌ただしく過ごす若者たちが、楽しさを手軽に享受しながら、そのじつ楽しさに追い回されるという主従関係の転倒。それが所与のものであった彼らは、求めることに反して実に受け身な存在である。学美たちが目指したものは、まさしく主体性の回復としての、誰の真似でもない、世界にたったひとつの学園祭を開催することだった。それは同時に、その過程で湧き起こるさまざまな喜びや苦労を仲間と分かち合うことのかけがえのなさ、強い実感を得ることである。何かを始めるのに不安を感じるのは当然で、だけどそれ以上に変えがたい経験が得られると信じている。それこそが「意味を超えた意味」、つまり「きらきらわくわく」の本質なのだった。学園祭の準備に励む生徒たちを見て光香が呟く言葉は示唆的である。「思ったんだけどね、これって、学園祭みたいだよね」

* * *


 では学美は、どのようにして人々を惹きつけることが出来たのか。『まなびストレート!』におけるコミュニケーションのあり方について言及することで、この疑問に答えたい。
 まず、この作品では、ものが伝わるということが、「分かる/分からない」ではなく「見える/見えない」という基準で語られている。まるで言葉というものが、相手との距離にロジックでもって架橋するのではなくて、イメージでもって手を差し伸べているようだ。たとえば第一話で校歌を歌う場面や、第三話で学園祭の意気込みを語る場面で、それは顕著な視覚効果として表現されている。
 これもまた、学美の生い立ちに深く起因しているのではないかと思う。つまり、遠い異国の地という言葉に頼れない環境が続くなか、おのずと彼女が身につけた方法なのではないか。端的に言えば、彼女は人の想像力を信じている。言葉が伝わらなくとも、伝えたいという想いは伝わる。作品内で視覚化された学美の世界は、それに共感する人々の想像力が働いていることを示している。そう考える時、「まっすぐGO!」という学美の座右の銘が、言葉よりもまずはじめに動作ありきと思えるほど、あの腕を前に突き出すポーズ自体に意味があると思われるのだ。そしてもちろん想像力とは創造力であるから、『まなびストレート!』とは想像力(創造力)を信じる物語だったと言えるかも知れない。

* * *

 ぼくの解釈が夢想的でいささか誇張されたものであることは否定しない。しかし、同じ夢を見られるかもしれないという希望を持たずして、ひとは他人に対してどれだけ誠実になれるのだろうか。粗を探そうと目を光らせたり、熱狂のあまり排他的に反論を退ける態度も、ひとつの眠りからもうひとつの眠りに落ち込むという意味では同じことだ。

* * *

 それにしても岡崎律子というひとは何て正直なひとだったのだろう。彼女の詞はあまりに誠実であるがゆえに、ぼくなんかはほとんどショックを起こすぐらいの気持ちだ。詞を見ることにとても勇気を要する。
 話もとりとめがなくなってきたのでここで終わりにしたいですが、最後に言えることは、まずは『まなびストレート!』という作品をまっすぐに見てみようということです。本当は言葉なんていらないと思うのだけど、今はこうして一定のことを書き続けるのが重要なのだと思っている。ほかならぬ、あなたに向けた文章を。言葉のみで、言葉を耐えよ。本当の出会いの意味が分かるまで。

リピートする絶望、リピートしろ希望

 『まなびストレート!』について書いた文章を会社に置き忘れてしまった。推敲する予定が明日に待ちぼうけである。ともあれこの作品については、稚拙であろうと是非を問わず書かなければならないと感じていた。ぼくはぐんぐんと太陽に向かって握手したい。
 ところで、絶望について書かれた書物と、希望について記述された書物は、歴史上どちらが多いのでしょうか。近親相姦的な匂いのする問いですが。

*  *  *

 標題は、千葉紗子が歌うアニメ『苺ましまろ』のキャラクターソング『「ソレ」は素敵なショウタイム』からの引用である。『苺ましまろ』のなかでは、この曲が圧倒的に好きである。とはいえ、ぼくはこのアニメを観たことがない。コミックも知らない。秋葉原ラジオ会館に巨大なポスターが貼られてあって、「かわいいは正義」というコピーともスローガンともつかない言葉を宣言していたことだけ知っている。感覚的な主観と政治用語がオタクの街でマッシュアップしていることがいかにも現代っぽくて印象に残っていた。名言である。そんなわけで、ぼくは観ていないアニメのキャラクターソングが好きなのだけど、そういう例はけっこう多い。
 曲の話をすると、気分次第では涙が出るくらい好きな部類で、企画モノらしくない素朴でしっかりとしたサウンドが胸を打つ。歌詞の内容は単純明快、初めてのライブに行きたい女の子が「最前列のど真ん中」を夢見ながらチケットの予約電話のリダイアルを繰り返して、最後にようやく繋がるというものだ。言葉はポップで軽くありながら、的確に描写を助けていて巧い。それに、内容から切り離される瞬間、歌詞の端々がにわかに名句として光りだす。

リピートする 絶望
リピートしろ 希望

 絶望は、希望のつねに少し前を行くもので、その距離に対する駆け引きがすなわちぼくたちの人生の葛藤である。希望はぼくたちの願いを動力として、百万光年先まで駆け抜けようとするだろう。

きっと繋がる あなたに繋がる
「チケットは午後1時から予約開始です」(あれーちょっと早かったか)

 電話をかけるという行為が、あなたに繋がるための架橋として変質する。あなたのステージの最前列でど真ん中に立ちたいという、健気な願いが希望の輪を回転させていくのだ。

声が聞きたい
こんなに聞きたい
憧れは夢の中までシャウト!
していたよ(いえーい)
きっと繋がる 最後には笑う
現実は私みたいな
コドモにやさしい(よっしゃー)

窓はいつも開けておけ、寒くなければ。

 本棚を買った。床に平積みしていた本は、すでに相当のスペースを占めていた。ぼくの部屋は縦長でクローゼットが多く、壁面の一部が迫り出しているから、家具を置くのにけっこう苦労する。そのためレイアウトを変更しなければならなかったのだが、どうせだからと思い切って部屋全体の掃除にあたることにした。
 まずは家具の配置を決定する。それから棚の本や洋服、雑多な小物を床に広げて、レイアウトを固める。少ない足場を上手く利用しながら、少しずつ物をしまっていく。ただしまうだけではなくて陳列の仕方にも気を使う。
 最大の問題はクローゼットだった。引っ越していらい四年間、とりあえずとりあえずと自分に言い聞かせながら押し込んだ結果、その内部は物的なゲシュタルト崩壊を、ピサの斜塔を形成していたのだ。ジェンガを思い出しながらおそるおそる物を救出していく。汗が吹き出る。舞い上がる埃にくしゃみを連発する。
 かくして、当初の絶望的なカタストロフィから次第に片付いていく部屋を眺めるのは悪い気分ではなかったし、埃を払い、物を整え、しかるべきカテゴリー分けをしていくことで、自分自身の内部もまた、部屋同様に風通しが良くなっていくのを感じていた。部屋はぼく自身の表象であったのだ。
 そして、ぼくは気がついた。ぼくの抱える問題が、部屋の景観にも反映されているのだ。寂しい壁面や、節操なく汚れるままに汚れた床。役に立たない机。まるで色気のない空間。なんとつまらない部屋なのだろうかと改めて気がつかされたのである。
 ぼくはもっと主張しなければならない。根拠は、ぼくがぼくに課した最低限のルールを守ること。生活をしっかり立てること。ぼくはぼくを裏切らない。ぼくはぼくに期待する。ぼくはぼくを誇れる。好きになれる。そうすれば、他人の姿だって見えてくると思う。本当の出会いの意味が分かるまで!
 そして、整理整頓もそこそこに、壁面にポスターを貼ったり、レコードのジャケットなどを飾った。ぼくはこうして自分の嗜好を前景化した。自分自身との同期を図っていく部屋というのは、しかし硬直した自我の砦なんかじゃなくて、積極的に世界に飛び込んでいくための前線であるべきだろう。内部への退行から外部への飛翔に通じる処女地であって、逃避を許す場所ではないだろう。いつでも帰ってこられるけれど、いつでも飛び出すことだって出来るだろう。
 そんなわけで、部屋の掃除は完了していない。